迫田の午睡アーカイブ

ツイッターには書ききれなかったことを書きます

存在しない夏の思い出の中で私は息ができない

f:id:sakota_utl3:20210724014055j:plain

https://imageslabo.com/photo/1174より

 今年も夏が来た。うだるような暑さの中、透き通るような空を見るたびに私は、いや、私たちは存在しない夏の記憶に思いを馳せてしまう。

存在しない夏概念

 「存在しない夏」という概念がある。これは厳密に定義されたものではないが、平たく言えば「我々の内側にある」「実際は体験していないにも関わらず」「なぜかノスタルジックな思い出を喚起する」「夏の情景」である。存在しない夏は多種多様な形で存在し、それらはなぜか共通の思い出として共有されている。

 お盆休みに田舎にある母の実家に行く人は多いだろう。都市の喧騒から離れたそこには今もなお残っている昭和以前の生活と、今時では珍しくなった畳の部屋(もしかしたら人によってはそこに掘り炬燵や囲炉裏もあるかもしれない)、そして一面に広がる田畑がある。一面の緑の中で同年代の白いワンピースを着た少女と日が暮れるまで遊んだ記憶。彼女は屈託のない笑顔でセミの抜け殻を見せつけてくる。ふと見上げた空には入道雲が浮かんでいて、「夕立が降る前に帰ろう」などと話しながらも別れるタイミングを見失い、結局はびしょ濡れになりながら家路に着く。母は帰りが遅かったことを叱り、一方で祖母は「風邪を引かないように早くお風呂に入りなね」と笑う。少女とは次の日もその次の日も一緒に遊ぶが、やがて自分の地元へと帰る日がやってくる。「また来年も遊ぼうね。」そんな約束は果たされることのないまま終わる。次の年に帰省しても彼女と会うことはできなかった。彼女は引っ越してしまったのか、それとも約束を忘れてしまっているだけなのか。そんな寂しさを抱えながらスイカに塩をかける。

 あるいは、こんな夏もあった。部活の大会が終わり3年生が引退して、チームは新たな体制となった。2年生の先輩は慣れないながらも新チームを統制している。炎天下の練習はきつく熱中症を訴え休憩する人も出てくる。そんな人を「やる気がない」と非難する部長と、それをなだめる副部長。練習が終わると数十分前から姿を消していた顧問が現れ、近所のスーパーで買ったアイスをみんなに配り始める。それはごくごく普通のフルーツバーだったが、今までに食べたどんなアイスよりも美味しく感じられた。そして迎えた他校との練習試合。相手はこの地域では強豪校と呼ばれており、県大会にもよく出場している。絶対に勝つと意気込んでいたものの努力も虚しく点差をつけられて負けてしまう。先生は「負けることも大切なことだ」などと言っていたが、それでも悔しさを拭い去ることはできずに一人また一人と泣き出してしまう。秋の大会では絶対に負けない。そう決意を新たに練習に励む。

 そして、こんな夏もあった。7月初めの席替えで前の席になったあの子。彼女は特にみんなからモテるわけではなかったが、僕は授業に集中できずに見つめてしまう。髪をかき上げたときに見える首筋には一切やましさがないはずなのだが、なぜだかそこにどこか官能的な雰囲気を見出してしまう。いや、いけない。彼女をそんな目で見てしまっては。彼女はただの友達で、そういう関係ではない。しかし、プールの後の濡れた姿やプリントを回すときに見せる笑顔に視線は釘付けになってしまう。終業式の日に、これから1ヶ月以上彼女とは会えないことに気づいて何故だか寂しい気持ちになってしまう。ああそうか、僕は彼女のことが好きだったんだな。「一緒に花火見に行かない?」ラインにそう打ち込んでは消し、表現を少し変えてはまたそれも消し、結局最後の一歩が踏み出せない。そんなことを繰り返していると唐突に「数学の宿題ってどこからどこまでだっけ?」とメッセージが来る。「え、既読はや」「たまたまだよ」そう答えるしかなかった。

 このような経験は皆さんの心の中にあるのではないだろうか。実際には、なかったにも関わらず。え、ない?それはお前だけだと思うよ。

原因の考察

  以上に挙げたものは夏を題材にしたアニメや漫画ではよくあることであり*1、我々はそこから摂取した思い出を都合が良いように脳内で再構築してしまう。そして生まれた集団幻覚。これこそが存在しない夏の記憶の正体なのだ。これは狂気と言い換えても差し支えないかもしれない。

そう、狂気なのである。

「部屋の中に紫の象がいて薔薇を育てています。」こんなことを言い出すのと同じレイヤーのものなのだ。我々は等しく狂っている。

しかし、存在しない夏が現れる理由はもう一つある。それは、憧れである。

f:id:sakota_utl3:20210724025131j:plain

存在しない夏は理性では捉えられないのだ

  思えばストレスフルな現代社会において我々は大切なものを得られずに生きている。忙しさに追われ人間関係に苦慮する我々は純粋だった頃の自分を渇望してしまうのだ。だが、そんなものはどこにもなかった。夏休みはゲームばかりをして怠惰に過ごし、好きでもない親戚との交際に気を遣い、受験勉強に追われ、友達とだって数回マックに行った程度。心にぽっかりと空いた穴はいつしか理想への憧れに転化し、その穴はやがて見境なく「エモーショナルな情景」を求めるブラックホールと化す。そしてついには無いなら作ってしまえとも言わんばかりに非実在を構築する。存在しない夏の中で私は息ができない。記憶の中の夏は探れば探るほど溶けていき、私たちはその海に呑まれて溺れてしまう。

 願わくば、今年の夏こそは良い思い出ができますように!エアコンのよく効いた部屋から発せられたそんな願いを聞き入れてくれる都合のいい神様は存在しない。かくして存在しない夏は存在し続けるのだ。

*1:本当にそうなのかな。具体的な作品名が出てこないけど適当なこと言ってます